豆の木秩父吟行記   田島 健一

秩父は凡そ山の印象である。聳え立つ武甲山はどことなく俳人金子兜太のかたちに似ている。

 平成十一年五月三日〜五日にかけて、豆の木では埼玉県秩父市を訪れた。それまでにも何度か秩父へ来たことがあったが、そのたびに思うことは、「四方八方山だらけ」ということである。東京からはさほど離れていない。にもかかわらず、なぜか「秩父」という地名にはときめくような古臭さが残っている。

 靴で靴の春泥おとしていたりけり ゆみこ
 緑風や秩父平野の膨れてる    智津子
 菖蒲湯の一番星のやうな爪    雄鬼

 初日。西武秩父鉄道芦ヶ久保駅から、目の前にある日向山をうねうねと登る。それほど大きな山ではない。うねうねと歩き続けて、日向峠から林道を抜けて市外方面へ。途中、日向山の山頂付近で「雲の上の茶屋」という触れ込みの「木の子茶屋」に立ち寄る。あいにく雲は我々の遥か頭上にあったが、これくらいの高さの山が、都会育ちの俳人の体力にはちょうどいい。

 新緑やハープのやうな橋渡る   朝比古
 喪の家の桟太かりし柏餅      悦花
如雨露に水いつも残りし母の家   由季

 宿は秩父札所巡り一番札所四萬部寺の門前にある「旅籠一番」である。実は、前年の暮れに秩父を訪れたときにもこの宿に泊った。安くて美味い料理に一同感激し、今回もこの宿を選んだのである。(ちなみに宿代が安かったのは豊島区指定の施設として手続きしたためで、まともに利用すればそれなりの値段になるそうである。感謝。)

 犬は犬が嫌ひ花林檎咲き初めり   悦花
 階段が老鶯いない方へ曲る     由季 蝮草の蓋をあければ音楽寺     雄鬼

 二日目。朝から雨が降ったり止んだり。この日はいちにち、宿に篭って句会を行うことに決める。吟行に来て、宿で一日中句会をやっちゃう。まったく、無駄なような気もするが、時には山に囲まれた静かな場所で、風呂に入ったり、ごろごろしたりしながら句を作るなんていうのは都会ではなかなか味わえない。贅沢である。

 タクシーに家族集まる花りんご   健一
 パラソルに手を引かれゆく昏さかな 
                 ゆみこ
 百八個の乳頭ふるへ甘茶寺     憲武

 途中、みんなで宿の近くのスーパーへ買出しに行く。そこの園芸店で大石雄鬼がやまぼうしの鉢を買った。やまぼうしは夏の季語で、ミズキ科の落葉高木である。傍から見ると、荷物になりそうなものだが、大石雄鬼は嬉しそう。まるで親子のようだ。

 八十八夜体の深きところ痛む   朝比古
 老鶯や舌が金属に触れてゐる    由季

 三日目は昨日とはうって変わって、雲ひとつない晴天の下、秩父二十二番札所童子寺を訪ねる。ちょうど花祭の時期と重った。花祭は仏生会ともいい、春の季語である。旧暦四月八日を釈迦の誕生日として、それを祝う行事である。一同、甘茶をいただく。
 門をくぐったところに林檎園があり、そこで袋掛の作業が行われていた。袋掛は桃や梨や林檎などの果実を害虫や鳥などから守るために紙袋を掛ける作業のことである。おじさんとおばさん二人きりの重労働だ。しかし、下から見上げていると、向こう側の青空と相俟って、実に爽やかで力強い。いいものを見せてもらった。
 童子寺から、二十二番札所音楽堂(音楽関係の参拝者が多い。秩父事件の舞台となり、その関連の石碑や鐘などがある)を訪ね、そして帰路についた。

カフェオレ飲みに袋掛から降りてくる 健一
 
 袋掛指の小虫をふっと吹く     憲武

秩父は凡そ山の印象である。四方八方山ばかりだ。その中に道があり、寺があり、人が暮らしている。都会では出会えないような季語にここでは出会える。生きた歳時記である。自然と、それに関わる人との割合が、この秩父では実に心地よく保たれている。

 山の高みから見下ろすと、武甲山のふもとに小さな屋根が集まって「秩父」というかたまりを形成している。



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