俳句評論

 ヘップバーンな女たち       吉田 悦花

俳人の黛まどか氏が主宰する女性だけの俳句結社「月刊ヘップバーン」。私は、俳誌「炎環」に連載した「俳誌を読む」シリーズで、「月刊ヘップバーン」を採り上げている。
 ここでは、この「等身大の彼女たち」(1997年 月号掲載)を振り返りながら、論考を進めたい。

 「有季定型に恋する」若き女性の集まり「ヘップバーン」は、この夏、創刊一周年を迎えた。主宰の「まどか先生」(会員はこう呼ぶ)は、処女句集『B面の夏』で恋の俳句の旗手といわれ、従来の「古臭くてお堅い」俳句のイメージを刷新した功労者として、一躍脚光を浴びた。
 結社を主宰する俳人の家に生まれた「お嬢さま」の芸能界から俳句界への転身。それに対して、世の俳人の中には、「お嬢さま」の実力を侮っていたむきもあったようだ。
 なんでも、あの角川書店が、俳句版「俵万智」をつくるため、会社ぐるみで角川俳句奨励賞を受賞させ、「俳壇に現れた新星、元ミスきものの女王」等々の売り出し文句でメディアに「仕掛けた」のだという。
 しかし現実に、その作品には「稚拙、ワンパターン、優等生ぶりっこ」といった声を超越して、若い女性を魅きつける柔軟な感性が光っていた。
 主宰は、巻頭の特別対談で「私の句を見た若い人たちが、これなら私にもできると俳句を始める。それが私の役割。私自身は常に俳句の入口という存在でいい」と語っている。あくまで謙虚である。


「いま、てっとり早く有名になるには俳句をやればいい」と皮肉ったのは、ある高名な俳人であった。
「俳句関係の賞は数も多く、インフレ気味」(朝日  ・ 3・ )といわれるが、黛氏は、月刊「俳句界」雑詠サロン選者のほか、「三重県・道の一句」「恋する女たちのハウステンボス」「俳句甲子園」等々、毎年のように、新しい俳句大会を立ち上げ、その選者を務めるなど、新しい俳句人口を積極的に掘り起こしていることは、周知のとおりである。

             ◎

 私ごとだが、二十代半ばの頃、初めて詠んだ「目覚めれば雪降り積もり君のあと足どり危うく歩むなり」(とかなんとか)という短歌が、近藤芳美氏の選に入った事がある。
 しかし、修飾をそぎ落とした俳句型式では、超個人的な想いを詠み込むことは至難の技だ。思い入れたっぷりな分、なまなましく嫌味になってしまう。
 ところが、まどか俳句は、現代的な素材の組合せによって「いま」の気分をさらりと掬いとり、やすやすとそのハードルを超えてしまったかにみえる。
 誌面は、女子校のノリのおしゃべりと横書き俳句がうまくミックスしている。短所も含めて自分自身をよく見つめ、より素敵な女性になるために自分を磨き、大いに夢を語る。

 昨年、『ヘップバーンな女たち』という「月刊ヘップバーン」会員の俳句&エッセイをまとめた本が出た。
 これを目にした友人が、「すごい」という。「なにがすごいって、コレを見よ」という。
「あるときは淑女、あるときは聖母、そして悪女にもなれる。/女はみな、化粧をすることで、柔軟に、したたかに、いくつもの役柄を演じ分けられる名女優なのだ」
 おことわりしておくが、昔流行ったニューミージックの歌詞ではない。「 年生まれ・ピアノ教師」のエッセイの抜粋である。
「レモンティーは、口をつけないまま、すっかり冷めていた。カップを手にした。ふと、それでも、と思った。彼女をしばらく見守ろう。それが友人なのだから。わたしは、レモンティーをゆっくりと飲み干した」
 友人はいう。
「お見合い結婚で結婚する女友だちを前にして、私は、あなたのようなつまらない真似はしないわ、という態度がミエミエ。それで詠んだ句が〈婚礼の前に集ひぬレモンティー〉。クールな都会派、というつもりなのかなぁ」
 ちなみに〈レモンティー〉とは、「月刊ヘップバーン」が提案する、秋の新季語である。

               ◎

「何を名乗ろうと勝手だけど、そのへんのお姉さんが、オードリー・ヘップバーンを気どるっていうのは、そのへんの男が、ジェームス・ディーンを気どるのと同じわけでしょ」
 という友人のご指摘、ごもっとも。「若い女性」(しかも大勢)というキーワードに世間(含・俳句界)は、弱いからね(「若い女性」というくくりも非常に大雑把かつ曖昧だが)。
 まぁ、「ヘップバーン」に対抗して、男性が「ボガード」を結成したら、新しいホスト集団かと、別な意味で話題になるだろうけど。
「でも彼女たちは本気だし、俳句まで詠んじゃうのだ。なんだろう、この倒錯は。ユーミン・シンドロームと見るべきなのか、柴門ふみ症候群と呼ぶべきか」(斎藤美奈子氏の「性差万別」より)
 
 恋も仕事も俳句も大事。心身ともに健康で美しく、わがままな等身大のヘップバーンたち。
  〈夜濯の知られたくなき涙など  加島裕子〉
  〈髪洗ひをりくちびるの熱きまま  森瑞穂〉
  〈嘘つかれゐる線香花火落つ     小野葉子〉
  〈終電を逃してしまふ浴衣かな  池田美樹〉

 
たとえば、「月刊ヘップバーン」主宰に、
 〈ふらここや恋を忘れるための恋〉
 という句がある。一読、ドラマの一場面のように、鮮やかに情景が浮かび上がる。巧い句だと思う。自句自解にはこうある。
「終わった恋を忘れるためには次の恋をするのが一番いいと言われます。だけど、心の傷を癒すためにとか、別れた彼へのあてつけのためとか、無理に始めた恋なんか、空しいばかりでうまくいくはずがありません。/「ふらここ」とは、子供たちが遊ぶブランコのこと。少し物思いがしたくて、戯れに乗ってみたブランコ。ブランコをこぎながら、やっぱり恋を忘れるためには新しい恋をするしかないのかしら……≠ニ考えているのですが、どこか淋しさを隠しきれない私なのです」
「私なのです」といわれても、ね。
 ひとつの恋が終わり、それを認識する間もなく、新しい恋が芽生える。それは、べつだん珍しいことではない。
「恋を忘れるためには新しい恋をするしかないのかしら」と考えるのも、他人がとやかくいうことではあるまい。
 しかし、どうも違和感が残る。「ふらここ」に乗って考えるか、そんなこと。
 自己陶酔の道具立てが揃い過ぎている危うさ。私はなにも、自己陶酔が悪いといってるのではない。
「俳句恋愛教」とか「黛なにがし一派の自己陶酔俳句」(エッセイスト・中野翠氏命名)と呼ばれる、一連の「ヘップバーン」調に見られる「いまどきの女の子の気分」をなぞったステレオタイプの俳句は、たしかに感情移入がしやすい。
「これなら私にもできる」と俳句を始める人も多い。それこそは、「私自身は常に俳句の入口という存在でいい」と語る黛氏が目ざすものである。俳句界の活性化にもつながることだろう。
 しかし、である。〈ふらここ〉の句を一句として見るとき、なんともゆるい。このゆるさは、一方では心地良さにも通じるのだが、言葉の圧縮力の弱さは、気になるところだ。

               ◎

「黛まどかさんの俳句、『月刊ヘップバーン』とか、それもよろしいですよ。ストレスの解消になっていいと思いますけれど、そういうのとこっちの俳句と一緒にされると困る。いちおう私たちは本当の俳句を守っていかねばいけない」(「俳句」「証言・昭和の俳句」の桂信子氏の言葉より)
 昨年、現代俳句協会大賞を受賞した桂氏は俳壇への率直な発言で、「反骨の人」として知られる。桂氏の「そういうのとこっちの俳句と一緒にされると困る」と同様の意見は、私の周りの複数の俳人からも耳にした。「ああいう俳句と一緒にしてほしくないのよね」とか。
 ある句会で、私が、
〈あとがきを考へてをり黒ぶだう〉
 という句を出したところ、「ヘップバーンみたい」といわれたことがある。
 一瞬「?」と思った。「ヘップバーンみたい」とは、ここでは、軽さに対する一種の「揶揄」として用いられている。
「五・七・五の十七文字の文芸のキャパシティーは、「月刊ヘップバーン」をも許容して、想像以上に大きい」(復本一郎氏「本当の俳句とは」朝日 99・2・ 14)
 俳句の脆弱化傾向が叫ばれるいま、「月刊ヘップバーン」を考えることは、突きつめるならば、現代の俳句の可能性、志の問題にまでつながっていくのかもしれない。

 生きることに前向きな彼女たちは、俳句はもちろん、物事に貪欲。簡単にはへこたれない。ときに挫折も味わうが傷つくたびに靱くなる。
 一瞬を鮮やかに切り取る俳句という「言葉の宇宙」を手にしたヘップバーンたち。したたかで、かなり手強い。

                   (ヨシダ・エツカ)


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